写真を撮るとき、あなたはどれだけ「見ている」でしょうか。
シャッターを切るたびに液晶画面を確認し、気に入らなければ削除して撮り直す。デジタルカメラ撮影では、そういう習慣が染み付いている。フィルム時代には存在しなかった「即時確認」という行為が、いつの間にか撮影の一部になってしまった。
そこに、ある種の怠惰を感じるようになった。
「ストイック(stoic)」という言葉がある。古代ギリシャのストア哲学に由来するこの言葉は、目標達成や自己成長のために、自分の欲望や感情を抑え、厳しく律する姿勢——禁欲的・克己的な態度——を意味します。アスリートが過酷なトレーニングを積むとき、あるいは職人が一切の妥協を排して技を磨くとき、そこにストイックな美しさを見出せます。
写真にも、そういう姿勢が持ち込めないか。そう考えて生まれたのが、「モノクロストイック撮影」です。
ルールはシンプル。
デジタルカメラにモノクロフィルターを設定して撮影する。撮影枚数は36カット、必ず撮り切る。枚数の追加はしない。パソコンに取り込むまで、画像は一切見ない。現像——つまり画像編集——は、明るさとコントラストの調整のみとする。
たったこれだけのことが、驚くほど難しい。
36という数字には意味がある。かつてのフィルムは、一本に撮れる枚数が決まっていた。36枚撮りのフィルムを装填したら、それで終わり。撮り直しも、途中でやめることも、実質的には許されなかった。一枚一枚が真剣勝負となる。
モノクロストイック撮影は、その感覚をデジタルカメラで再現しようという試み。フィルムカメラでモノクロフィルムを使った撮影の、あの緊張感と誠実さを、デジタルカメラで取り戻すことを目指しています。
実際にやってみると、最初の数枚は戸惑うことがある。
シャッターを切った後、反射的に液晶に目が向く。しかし画面は確認しない、というルールがある。その欲求を抑えて、次の被写体へ進める。「うまく撮れただろうか」という不安が頭をよぎる。考えても仕方がない。シャッターを切った瞬間に、その写真の運命は決まっている。
やがて、不思議なことが起きてくる。
撮影に集中し始めるのだ。確認という行為がなくなると、頭の中が静かになる。光と影、被写体との距離。シャッタースピードと絞り値の選択。そういうことだけを考えるようになる。ノイズが消えて、本質だけが残る感覚。
36枚という制限も、思考が研ぎ澄まされる。撮り直せると思うと、いい加減になる。しかし「あと何枚しかない」という意識があると、一枚の重みが変わる。これを撮るべきか、まだ待つべきか。そういう問いが生まれてくる。
パソコンに取り込む瞬間が、この撮影の醍醐味。
36枚の画像が画面に並ぶ。それは、数時間前の自分の眼差しの記録だ。記憶の中の風景と、実際に撮れた写真が照合される。思っていたより良い一枚がある。逆に、自信があったカットが凡庸だったりする。その落差が、正直で面白い。
モノクロという選択も、この誠実さを強化される。色彩が消えると、構図と光だけが残る。誤魔化しが利かない。色の鮮やかさで誤魔化せた凡庸な構図が、モノクロでは一目でわかる。そしてその逆に、光の質と影の深さだけで成立する、静かに力強い一枚が生まれることもある。
編集を明るさとコントラストのみに限るのも、同じ理由だ。RAW現像で色温度を操り、トーンカーブで劇的な変化をもたらすことは、もはや撮影ではなくグラフィックデザインに近い。ストイック撮影は、あくまで「撮ること」に誠実であろうとする。
写真を撮ることは、景色を見ること。
しかし確認という習慣は、その視線を過去に向けさせてしまう。「今撮ったもの」を見るために、「今目の前にあるもの」から目を離す。その繰り返しが、撮影をある種、作業に代わってしまう。
モノクロストイック撮影は、視線を景色にだけ向けさせる。撮ったものは見ない。ただ、次の景色を探して歩く。
これはフィルム時代の写真家たちが、当たり前のようにやっていたことだ。そして今、それが特別な修練のように感じられるとしたら、何かを失ったのかもしれない。
36枚のモノクロは、その「何か」を取り戻す、小さな実験だ。
